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語り手:宮本明さん
聞き手:木村紀夫
編集:高垣慶太さん

2025年8月22日、宮本明さんにお話を伺いました。宮本さんは、熊川稚児鹿舞の保存会会長として芸能の継承に尽力されています。大熊町から会津へ避難後、鹿舞の復活を要望する声から、2013年に大人たちが踊る鹿舞を開催し、その後、大熊町出身の親を持つ子どもたちも踊り手となりました。
2026年3月14日には「おおくま学園祭」が開催され、CREVAおおくまで熊川稚児鹿舞の公演が行われました。この日、初めて大熊町立 学び舎ゆめの森(2023年開校)に通う子どもたちも踊り手として舞いました。インタビュー紹介の前半となる今回は、宮本さんと木村紀夫が稚児鹿舞についてお話しした内容を紹介します。

熊川稚児鹿舞奉納(2009年8月29日)_大熊町写真館より

大熊町熊川で約300年に渡り、地区の子どもたちが踊ってきた「熊川稚児鹿舞」。諏訪神社の境内で毎年夏のお祭りにおいて奉納されてきた伝統芸能です。大野駅の近くのCREVAおおくまを訪れると、壁面に鹿舞の様子が描かれています。

CREVAおおくまのエントランスホール

2011年3月11日、東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故により、熊川地区をはじめ大熊町は帰還困難区域となりました。現在、鹿舞が奉納されていた諏訪神社の境内は、事故により汚染された福島県内の土壌を集積・保管する中間貯蔵施設の中に位置し、長く継承されてきた鹿舞の存続もまた、危ぶまれる状況が続いています。

「長男」が舞う伝統芸能

宮本さん:
なぜ長男かっていうと、長男は必ずその家庭を引き継ぐために残りますよね。それで、長男って決めてた。で、1回選ばれると5年間踊るんですよ。で、また5年経つと新たに選ばれる。その5年のなかに長男がいないときには、次男が選ばれる。そういうふうに踊ってもらったんですけれども。

木村:
俺らって結構他にも長男いたんです。結構いましたね俺の時代って。

宮本さん:
うん。うちのは4つの集落があったんですよ。集落っていうか班。熊川。その地区に、4つの班。その古舘班、女迫班、川原班、八坂班ってある中から、1人選ぶ。なんで、4人ですよね。

木村:
1番ちっちゃいコミュニティが、その古舘、女迫、川原、八坂って4つあって、そっから1人ずつ踊り手を出すっていう。

宮本さん:
歳がその、同級生とか、1個先輩とか、そういうやつから選ぶんですよ。だからそこにいないときには、他の班から応援をもらって。例えば古舘班に、その、同じくらいの歳がいなかった場合には女迫から2人出すとか。

木村:
それがなかなかこう、踊り手が長男では賄えなくなったっていうのはいつ頃から?震災前はずーっと長男でやってたんでしたっけ。

宮本さん:
いや、震災前からそうなんですけれども。で、震災後も原則踊るのは男の子で、震災後の2代目からは女の子も入ってる。

震災後の鹿舞
宮本さん:
震災後はもう、県内外に避難しちゃったんで。そうするとやはり、大熊出身の親の子どもたちならいいでしょう、と。で、震災後始まったのが、 平成25年(2013年)から。これはたまたま、震災で会津若松の方に避難した子どもたちがいたんですよ。

県の補助をもらって踊り一式ね、衣装やなんかも揃えたんで、踊りを再開するんで、子どもたちに協力してくださいって言ったわけ。したら、じゃあ僕やるよって言ってくれて始まったんです。ただその子たちは、震災前にもう実際に踊りを見てたんで、まあ次は自分たちの番かな、っていうのはもう心構えができてたみたいなんですよ。すんなり、引き受けてもらって。そんで練習する時には会津の方に、仮設住宅に入ってたんで。月に2回。通例は土曜と日曜の2日間だったのが、それを今度は月2週(4日間)開催にして。第1週にやったら第3週の土曜日曜にって練習してたんです。

2016年7月31日 秋田県鹿角市にて(宮本さん提供)

宮本さん:
震災前の練習は、夏休みでした。諏訪神社の境内の横に公民館みたいな集会所があって、そこで練習。1回の練習は2時間くらいで、6時からやれば8時頃まで練習するんですよ。夏だったらねえ、日が長いから7時から9時頃までやるね。初めての年は、もう1ヶ月びっちり練習するんですよ。1年目はね。2年目になるとね、もう大体覚えてるので、2週間で練習したり。もう最終の年くらいには1週間も練習すれば。

木村:
その練習に行くのが楽しかったっすねえ。大体夜、お父さんお母さんが仕事終わって帰ってきてから練習で。

宮本さん:
終わってからね、色々パンもらったり、夏は食べ物いっぱいありますからね。

木村:
んで、大人が酒飲みやってるなかで、境内で子どもらは、真っ暗のなかで遊ぶっていうのが。なかなか夜ね、遊びに行くなんてこともないし、楽しかったなあっていう思い出がねえ。

宮本さんの現在お住まいのお宅(いわき市)の壁にかけられた写真。左から、娘さん(当時9歳)、奥さん、息子さん(当時7歳)

宮本さん:
それで引き継ぎの年は、前踊ってた先輩達が一緒になって、その後ろついて、練習するんですよ。その、礼儀作法とか。
今はそれができないですからね。

もう震災後は、鹿舞のことはもう完全に頭から抜けてましたね。震災後の1年後、県の民俗芸能調査団の団長と事務局の人かな。たまたま私のところに来たんですよ。「宮本さん、熊川の稚児鹿舞っていうのは長年続いている伝統芸能なので、ぜひ継続してもらえないですか」って、そういう話をして。自分1人ではねえ、即答できないわけ、みんなもう避難してるんで。「保存会のメンバーが15、6人いるんで、相談して決めますから」って言ったの。
8月に郡山の磐梯熱海にメンバーに集まってもらって。こういうわけで、県の補助で道具やなんか新調してもらえるんで、俺としては継続したいんだけど、ったら、中には「避難してもういつ帰れるか分かんないところのお祭りに、やっていいものか」って意見もあったんですよ。

神社があって、そこに踊って奉納して初めての、我々の伝統芸能。それ無意味じゃないの、って意見もあったの。

そしたらなかには、いやぁなぁ、せっかくそういう話が出たんだったら、継続しようじゃないかって。15人の内、3人くらいは、いや、やめた方がいい、っていう人もいて。俺はもう混ざんないっていう人もいたんですよ。だから賛成した人たちで、やりましょう、って継続することに。
今度は、踊り手を探すわけなんです、それから。んで、「じゃあ踊りは大人でやるか」となって。

木村:
「稚児」鹿舞だけどね。

宮本さん:
うん。会津に避難している人たちに声かけて、やったんです。したら、「頭に稚児ってついてるからなぁ」という話になって。できれば子どもたちに引き継いでもらった方がいいということになって、さっき言った子どもたちのところに行ったわけですよ。
最近は、学び舎ゆめの森の子どもにも声かけて。学校にお願いしたんですよ。こういうわけで伝統芸能を引き継いでくれる子どもいたら、お願いしたいんですけれど、ったら、3人が手挙げてくれた。5月からそろって練習が始まった。

俺らんときは子どもたちがいっぱいいたから、俺は5年生からやったんですよ。5年生から中学3年生まで。そうすっと次は4年生か5年生に踊ってもらう。元々はね、親がその前に踊ってたからとかで選んだんですけども。だからうちなんかも、俺の孫二人も踊る、それで親父が踊ってたんですよ。で、踊りの順番があって、法元(ほうがん)、雌鹿子(めじし)、中鹿子(なかじし)、後鹿子(あとじし)っていって。

木村:
体の大きさで決めてましたよね。俺がたぶん1番でかくて。

宮本さん:
そうそう、うん。体が一番おっきいのが、法元。で雌鹿子が女役だから、小さい。

2026年3月14日「おおくま学園祭」にて熊川稚児鹿舞を舞う保存会の皆さん

鹿舞の起源

木村:
「五穀豊穣を願って」という目的で踊られてるって聞いたような気がするんですけど、それで間違いないですか。

宮本さん:
そう。昔、冷害でね、やはり凶作、疫病が流行ったり。米も採れない、野菜なんかも採れない。そうすっと、誰かが食べ物を盗まれたってなった時に、いざこざとかそういう、その集落がかなり荒れたみたいなんですよ。そこで、長老たちが集まって相談した結果、鹿舞を神社に奉納したらどうかと決まった。鹿舞の発祥は、どっから来たか分かんないんだけど、その地区内のいざこざや、夫婦の別れとかを治めるために、子どもの踊りを神社に奉納してはどうかなっていう話があがった、というのが始まりと聞いてますね。

木村:
単純に五穀豊穣ではなくって、なんかこう、色んないざこざが増えて、それを治めるために始まった。

宮本さん:
地区内の安泰だよな。

木村:
そのいざこざっていうのはやっぱ、生活が厳しくなると多かったんですかねえ。前に誰かから聞いたけど、大野村はもともと野上とか大川原とかが合併して大野村になったっていう話の中で、1文字ずつ取って付けたじゃないですか。単純ですねぇ、って言ったら、「いや、そういうんじゃなくて、隣同士いざこざが多かったから、両方立てて、名前取ったんだあ」みたいなこと言ってて。だから本当に、隣の集落でも結構争いごとがあったのかなあ。

宮本さん:
まあ、やはり、食べ物がないと、栄養失調とかなってくっと(なっていくと)思うよ。病気になりやすいとかねえ。まあそういうんで五穀豊穣とか。そこにつながるんだけど。食べ物を食べて元気つけば、病気にならない。で、熊川地区ってのは海近かったんですよ。だから船を出して、太平洋で魚取って、そういう漁する人もいますよね。だから大漁祈願とか。んだあ、農業の場合には豊作、海は大漁と。家庭内安泰、地区内の安泰と。そういう、そのほかをまとめての奉納ですよ。

震災前の諏訪神社(宮本さん提供)

宮本さんのお話を伺って(高垣慶太)
 熊川稚児鹿舞について、僕が初めて伺ったのは木村さんのガイドで熊川公民館と隣の諏訪神社跡地をご案内いただいたときでした。今回、宮本さんや木村さんのお話を伺うことを通して「震災、原発事故によって失われかけた伝統芸能」という漠然としたイメージを持っていましたが、鹿舞がどのように営まれていたのか、何を願って始められたのかなど、より立体的に稚児鹿舞について知るきっかけとなりました。
 宮本さんのお話のなかで特に印象深いのは、震災の翌年、稚児鹿舞を継続してほしいという話を受けての保存会での話し合いです。「避難してもういつ帰れるか分かんないところのお祭りに、やっていいものか」「神社があって、そこに踊って奉納して初めての、我々の伝統芸能。それ無意味じゃないの」という意見が上がり、再開には疑問を呈する方々もいらっしゃったと。そこには、ただ単に再開すべきかしないかという話ではなく、これまで一緒に保存会として活動されていた仲であっても、それぞれに稚児鹿舞を行う上で最も大切だと感じている部分――諏訪神社で舞い、奉納をして初めて「熊川稚児鹿舞」であるという思い、氏神様と村民を繋ぐ芸能という側面や、その地域で行うことの意義、その土地で行うことに意味があるといった――があるのだろうと考えさせられます。再開を巡っての意見の相違には、それぞれに熊川や鹿舞へのかけがえない思いがあり、宮本さんも様々な意見に出会いながらも、次世代への継承に取り組んでおられるのではないかと感じました。
 また、木村さんとお話しされる中で、かつての稚児鹿舞の練習を懐かしく思い出されていた姿も印象深いです。事故の影響が続くなか、かつてのように神社の前での鹿舞は叶いません。しかし、大熊や熊川の営み、芸能に込められた人々の思いまで奪われないために、紡がれていく努力と試行錯誤に今後も注目していきたいです。