巡ってつながる 旅するように考え続ける
私が福島に!
ここ双葉郡(福島県沿岸部)に暮らして、もうすぐ5年になる。2011年当時に、福島で暮らすことになることを全く想像できなかった。あの春、国内外の多くの人たちが「何かしなくちゃ!」、とその動きはうねりとなり、岡山に居た私も同じだった。同い年の仲間たちと「行こうっ!」と声を掛け合い、4月の終わりダンプ2台に重機を乗せ、私はバンに乗り込み、東北に向かった。そして、宮城県沿岸部の七ヶ浜に行く途中、車列が福島に入ったときに体がこわばったことを忘れない。私は、被曝を恐れた。翌月、再び七ヶ浜へ行くときも同じだった。
それから10年、私は双葉郡にやって来た。双葉郡には8町村あるが、ぼんやりと「双葉郡に住んでます」としているのは、着任時、どの町に住むかをめぐり大騒ぎになりそうな経験をしたからだ。正直、複雑なところに来たなと思った。

写真1 現地で配布された作業車用の貼紙と仲間たち(写真筆者)
外の世界への好奇心
これまで人生設計もなく、旅するような綱渡りならぬ、切れそうな糸を渡るように過ごしてきた。度々のピンチに遭遇しても、いつも救いの手がどこからか伸び、切れそうな細い糸がつながる。“思いつき”が予期せず舞い降りてきて、考えるよりも先に“好奇心”が背中を押し体が動く、ということを繰り返してきた。
10年前の体のこわばりは、いつしか「浜通りに暮らしたらどうなるだろうか」、という知りたい気持ちがまさり、“復興”や“誰かのため”ではなく、自分を試してみたい一心で双葉郡に来た。この地で「原発事故とは?」という問いに向き合いたいと、日々、ぶつぶつ独り言を唱えるように暮らしている。
社会に対して疑問を抱くのは、母いわく、小さいころから「おかしいぃ?! おかしいぃ?!」と言っていたらしい。中でも、15歳のときに参加した交流プログラムでインドネシアの家庭にホームステイをした時、裕福なホームステイ先と外で遊ぶこどもたちとの貧富の差の光景が高度成長期に育った15歳の私には衝撃で、社会にある矛盾、不条理、不公正に関心が向くようになった。「世界はどうなっているのか?」

写真2 燃料の薪を運ぶ人々(コンゴ共和国:写真筆者)
彷徨い 出会う
その後、バブルの波に乗った新卒2年目、ある日出社したら「事業見直し、業務停止」となり、本格的な風来坊が始まる。転職先でフランス駐在が舞い込み、フランスの旧植民地の“アフリカ”と出会い、彷徨うような旅する人生に拍車がかかっていく。私の無知によるアフリカへの先入観の眼差しに違和感を抱き、「アフリカを知ろう」と休職し学部に編入。その後も、復職・離職・再就職を続け、日本とフランスを行ったり来たり。通算18年ほどのフランス勤務の経験は、communicative(コミュニカティブ:話好き)なフランス社会にどっぷり浸かり、もまれ、“わたし”の確立を鍛えることができた。日常的に、立場を超え一個人として、政治・経済など社会の出来事を自分のことばで語る。「ミカはどう思う?」と毎日の仕事場での対話は、社会への関心を喚起し自分自身で考え、語ること、社会の感度を上げていくことになった。
この経験から、まずは、身近なところで話せる環境をつくっていこう、と双葉郡で試行錯誤を重ねている。

写真3 日暮れ アパルトマンの窓から(パリ:写真筆者)
動いて つながる
2021年、福島に行く前の挨拶先で赴任する旨を伝えると、「岡山を捨てるんか?」と言われ、とっさに「岡山と福島をつなげていくんです!」と答えた。不統一に見える私の行動だが、より道して国際関係学の学位を取り、その視点で双葉郡を見ると、アフリカと類似の構造が浮かびあがる。両者には、“援助=原発マネー”に頼らない真の独立、自分たちの足で立って歩くということが通底する。私の中では、自然な成り行きでつながるが、独りよがりなのだろうか。
双葉郡に来て以来、「おかしい」と思うことが増え悶々とする中、この数年、木村紀夫さんをはじめとする(一社)大熊未来塾とともに、地域住民や学生たちも交え「記憶の継承」を深く考えるようになった。そのような取り組みから、先日、久しぶりに岡山県瀬戸内市の長島愛生園に足を運んだ。長島愛生園は、1930年(昭和5年)11月に開園した日本初のハンセン病患者の国立療養所だが、当時は有効な治療法がなく、国の政策として隔離が行われていた。これまでも園内の歴史館を訪ね、南側にある桟橋が入所者の語る「社会との決別」を象徴するものだと思っていたが、違うことにやっと気づき、本来の桟橋に向かった。そして、「故郷への想い」と刻まれた石碑(写真4)を目にし、全てがつながることを得心した。
ハンセン病患者と福島、そして、アフリカの人々が「強制的にそれまでの暮らしを奪われた経験」でつながったのだ。

写真4 長島愛生園 開園九十周年記念碑(写真筆者)
※右後方に崩れている「収容桟橋」

写真5 長島愛生園 収容桟橋(写真筆者)
わたしたちの歴史に向き合う:伝える“もの”と声
アフリカは、15世紀から19世紀に欧州諸国が主導した奴隷貿易により、多数のアフリカの人々がアメリカ大陸に強制移住させられた。私は訪れたことはないが、奴隷貿易の拠点であったセネガルのゴレ島やガーナのケープ・コースト城塞は、1970年代に世界文化遺産に登録され、既に500年近く経過しようとしているが、当時の悲劇を今に伝えている。
長島愛生園内には、今も入所者がおり、自治会を中心に記憶を伝え、偏見と闘った歴史を語り継ぐ活動をしている。園内には、ハンセン病の歴史を伝える施設をはじめ、収容桟橋、収容所などの史跡を散策しながら巡ることもできる。石碑(写真4)の先にある、「収容桟橋」(写真5)は、現在は崩れているものの、残っている姿はわたしたちに静かに語りかけ、その重厚感が伝わる。
桟橋そばのプレートに説明が記されており(写真6)、QRコードを読み取ると語り部の録画映像が視聴できる。「(桟橋に降り立つことは)社会との決別、家族との別れ」という強制的に長島愛生園へ移住した入居者の声をその場に立ち耳にすると、「隔離」を肌で感じる。わたしたちの歴史を体感することができる。

写真6 長島愛生園 収容桟橋の説明(写真筆者)
目をつぶらない 忘却に抗う
放射能汚染は目に見えないといわれ、体感することが難しい。本当に、目に見えないのだろうか。
福島県内には、今(2026年4月現在)も、7市町村に帰還困難区域があり、立ち入りが制限されている。私が暮らす地域には、各所に空間線量計が設置され、線量を目にする。新聞、ラジオ、各町村の広報誌ではモニタリングの数値が伝えられる。放射能は見えないかもしれないが、放射能汚染は双葉郡の日常で“目にする”ことができる。ところが、“復興”の旗の下、この土地の風景の変化に抗えず、汚染、原発事故への意識がどんどん遠のいていく。大熊町内を見渡すと、そこにあった商店や家がなくなり、町民たちが使っていた公共の建物が壊され、新しい住宅や施設ができ、町の情景が日々変わる。このままでは原発事故の爪痕が根こそぎ取り除かれ、事故が無かったことになるのではないかと怖くなる。
二度と同じ過ちを繰り返したくない思いから、地域の方々と考えられるようにと「話せる環境づくり」に細々と取り組んできた。その中で、ある参加者から「この地域で原発のことを話すのは事故前からタブーだった」「話すと自分たちの生活を否定してしまう」という発言を聞き、戸惑った。言葉を発することもできず、静かに語る“もの”もなくなっていく。

写真7 Pointe Noire(ポワントノワール)の日没(コンゴ共和国:写真筆者)
わたしたちが経験したことは何だったのか:向き合い考え 未来につなげる責務
長島愛生園にある収容桟橋のように、静かに“そこにあるもの”が過去の歴史を語り、今を生きるわたしたちがそれを受けとめ、未来につなぐ。過去を変えることはできないが、向き合うことによって、よりよい未来を問い続けることはできる。そのような場の一つが、大熊未来塾なのだろう。“塾”の所以、学び・考える「場」なのだ。これまでのこと、過去を知り、今をみつめ、そして、未来を問い、考える。昨年度(2025年度)から、熊町小学校の“これから”をめぐり、大熊未来塾をはじめ、おおくまふるさと塾、そして、卒業生らとともに考えてきた。それぞれの想いがあり、捉え方に違いがあることもわかったが、「壊してしまったら、二度と取り戻せない」という卒業生らの声もあり、「壊す」選択肢は出てこなかった。
飯舘村の佐須小学校は創立100周年を迎えた直後の1977年に閉校したが、その後も地域の人々が集う場所として慕われていた。避難を終え戻ってからも集っていたが老朽化と維持管理を考慮し、苦渋の決断で歴史的な趣のある校舎を取り壊した。村が将来ビジョンを示していれば、違う検討ができたかもしれないと惜しむ声も聞こえるが、帰還した住民が少なく将来像を描くのが困難な中での選択であった。先日、ある会合で現在の行政区長と一緒になり、熊町小学校のことを紹介したところ、一言「(結論を)早まるな!」と力強く言葉を放った。その言葉には、大切にしていたものを失くした経験がにじみ「どのような未来としていきたいのか考えろ!」という激励が込められていると受けとめた。
なぜ熊町小学校の校舎や校庭がこの状態で今にあるのか、思い出も含めて「奪われた暮らし」の証として、同じ思いを将来のこどもたちにさせないためにも、黙ってここで語り続けてくれる“もの”を未来につなぐのが、わたしたちの責任だと私は思う。
旅するように問い続けてきて、先人たちが残した“もの”から「強制的に暮らしを奪われた人々」の糸がつながる醍醐味を知ることができた。双葉郡の地にずっと留まる覚悟はできないが、これからも、私は考え続けていきたい。社会にある課題が全てつながるように、未だ出会っていない人たちとつながり、少しでも考える輪が広がるよう歩み、旅を続けていきたい。

写真8熊町小学校 校庭からの校舎
(撮影2026年春:写真筆者)
- プロフィール
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福島大学地域未来デザインセンター 研究員