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この記事は2021年8月15日に発行された「SoiL vol.1」に寄稿いただいた文章です。

2020年9月29日。7歳から6年間通った富岡第二小学校。

多くの人がさようならを言えないまま除染のために解体されてしまう場所に立ち入ることが許された。環境省の職員が案内する中、敷地に立ち入る。南校舎は大部分の解体を終え、すでに北校舎の解体が始まっていた。ショベルカーが4台、校舎に噛みついてはコンクリートの壁を引き剥がす。バラバラと落ちる破片と舞う粉塵。破片の隙間から何か文字が書かれた看板が見える。

私がこの町で過ごした痕跡が、建物と共に失われていく様子を、幾度となく目の当たりにしてきた。2017年、除染のために自宅の解体をした。私にとって富岡とのひとつの繋がりを失ってしまったように感じた。その後、二小へ足を運ぶ機会が増えたのは、薄れてしまった故郷との繋がりを強く感じられる場所だったからだと思う。

間も無く震災から10年が経過する。あの時「また明日」と言って別れた友達は、今はどこで、なにをしているのだろうか。

 

2011年3月12日までの13年間、私は福島県富岡町で生活をしてきた。当時の私は富岡第二中学校の1年生だった。11日は卒業式だったので午前中に卒業生を見送って、午後からはいつも遊ぶ友達4人と公園へ遊びに行き、近くのコンビニで雑誌を立ち読みしていた時に東日本大震災は起きた。目の前の窓ガラスが割れ、背後の棚からバラバラと商品が落ちる様子をただ呆然と見ることしかできなかった。外に出ると、駐車場には周辺店舗から出てきた人たちが座り込んでいる。4人の友達は先に外にいて、泣いているひとりをどうにか慰め励ましていた。津波警報が鳴り響き、雪が降り始めた。予想される津波の高さがだんだん上がっていく。どこへ避難して良いか分からず、私たちはとりあえず二中に向かった。

地面が割れ、家の瓦が路上に散乱している中、無事に辿り着けるのか不安で何度も足が止まりそうになったのを覚えている。学校の体育館には部活動をしていた友達や周辺の住民たちが集まっていた。日が暮れ始め、家族が迎えに来てはひとり、またひとりと避難所を出て行く友達を「また明日ね。」と見送った。辺りが真っ暗になった頃、ようやく母と兄が迎えに来てくれた。避難所を何件も回り、私を探したらしい。家族が先に集まる避難所に移り、1枚の毛布を家族4人で分け合いながら「明日は家の片付けをしないとね。」と話していた。

あの時、私たちは「また明日」が何年も先になるなんて考えてもいなかった。今でも遠くに避難をしてあの時以来会っていない子もたくさんいる。私たちは、あれからそれぞれの10年を過ごし、すっかり連絡をとることもなくなってしまった。

 

富岡町は東日本大震災による原発事故により全町避難を余儀なくされた。その後、2017年4月1日に帰還困難区域である一部を除き避難指示が解除され、もう4年が経過しようとしている。震災から10年、今も町の風景は大きく変化し続けている。

最大21メートルの津波が襲った漁港や海沿いの住宅や駅舎、駅前商店街は津波で流されたが、解除の目処が立った頃から次々と解体が進み、今は新しい駅舎と漁港が再開している。巨大な堤防と、浜街道、そして浜街道と国道6号線を結ぶ汐橋が建設中だ。中央商店街だった場所はかつての賑わいが思い出せないほど解体が進み、空き地が広がっている。沿岸の津波浸水区域や国道6号線沿いの農地が仮置場として使われ、家屋の解体や除染等で出た放射性廃棄物の入った黒いフレコンバックが山積みになっている風景が見られたが、今はほとんどが大熊町と双葉町に作られた中間貯蔵施設に送られている。

上手岡地区には太陽光パネルがずらりと並んだ光景が広がる。避難先への定住化が進んだことにより、町内での営農再開が困難になった田んぼや畑などの土地を貸し売りしているからだ。

解除後、病院やスーパー、情報発信拠点、居酒屋、美容室などの営業が始まり、少しずつ生活環境も豊かになっていった。

2020年3月14日には常磐線が全線開通した。私の自宅に近い夜ノ森駅は橋上駅に生まれ変わり、この地に関わる多くの人が桜をイメージしたピンク色の傘を手に開通を祝った。

国道6号線には、全国チェーンの店舗が震災当時のままの状態で建ち並び、通過するたびに震災前の町の賑わいや、地震の大きさ、避難指示からの時の流れを感じずにはいられなかったが、それも2020年に入ってから大きく解体が進んだ。私の自宅があった夜の森地区や海側の小良ヶ浜地区は現在も帰還困難区域だが、夜の森地区の一部区域が2020年3月10日に先行解除があり、敷地には新たに柵が設置され、道路のみ通行が可能となった。先行解除の少し前から帰還困難区域では解体が順調に進められ、震災前の暮らしの痕跡がどんどん見えなくなっていく。

その姿を見るたびに、あの時のままでいて欲しかったと願う気持ちと復興が前に進むことの喜びに引き裂かれる。この復興の難しさは、やはり原子力災害による影響だ。チェルノブイリの原発事故では、35年経った今も誰も住むことができない街を生んだ。それは放射性物質から離れることで人体への影響を抑えるためだ。しかし、福島の原発事故では除染をし、避難指示の解除が進められている。放出された放射線量を軽減するためには、汚染された家屋や土壌などを除去する必要があり、残さないことが何より優先される。除染が進めば解除できる区域が広がり、そこに人が住めるようになる。だとすれば、原発事故の伝承や遺構はどのような形で可能なのだろうか。自然災害の多い日本という国で、現在も稼働中の原発がある以上、この先同様の事故が起きる可能性はゼロではない。復興の歩みを記録することは、今後の災害の復興をどう考えるか、東日本大震災のこの復興自体を検証することにつながるだろう。加えて、災害によってもたらされた痕跡やそれに伴う残存物としての遺構(震災遺構)を介することで、見た人が個々に多様な経験に意味を想起するのではないだろうか。原発被災によって、突然住んでいた土地を追われた人々の中にも、未だに経験を言葉に出来なかったり、直視出来なかったりする人は多くいる。今後あらゆるものが失われていき、その人たちが町へ再び帰ってきたとき、自分の住んでいた町を感じられなかったとしたら大きな喪失を感じるのではないか。震災後、全町避難によって新たな人生を歩む必要に迫られた。続くと思っていた当たり前の日々や、あったはずの未来が行き場をなくし街を彷徨っていた。私は、町に帰ってくるたびに自分がこれまで歩んできた時間に思いを馳せ、震災で断絶された時間を受け入れてきた。それは弔いのような慰霊の時間であったように思う。墓は慰霊の場であると同時に、自らの生を見つめる場のようにも感じられる。あるはずだった未来を亡くした人々にとっての墓のような(しかし、それは必ずしも死者の眠る場所を意味しない)、自分やその地の人々の記憶を辿るための回路のような空間として、遺構を考えることは出来ないか。

 

私が訪れた時には解体中の校舎の中はコンクリートがむき出しになっていて、面影が残るのは手洗い場とトイレと廊下の荷物かけくらいだった。あれだけ過ごした時間もほとんど思い出せないくらいに跡形もなくなってしまっていた。

でも、イチョウの木だけは変わってない。イチョウの木越しにみえる校庭やプールには6年間過ごした何気ない日常が詰まっていた。幼い時の記憶が走馬灯のように浮かんでは消える。校庭にある裏門の近くの木に登って好きな人の話をしたこと、プールサイドに植えたヘチマ、登り棒のてっぺんで日向ぼっこして怒られたこと、リレーで自分のクラスが僅差で負けて泣いたこと。

校庭の東側の遊具は辛うじて残っていたが解体で無くなるらしい。私はどうしても最後に遊びたくて草むらをかき分けて入っていった。ブランコに揺られながら、頭の中が次第に空っぽになっていった。見知った温かな陽射し、鳥の声。視線の先では重機が唸り、校舎がまた崩れ落ちる。膝丈ほどの草が私の足に切り傷を残し揺れた。自分の記憶を辿りながら、気づけばこの場所に小学校が建てられた時から今までここに通っていた人々を思っていた。思い出たちがこの場所にみんなを連れてきてくれたみたいだと思った。解体に立ち会う時、度々そんな気持ちになる。震災後に富岡の自宅に戻るたび、被災で崩れた外壁や、避難の間に住み着いたハクビシンの家族、雨漏りで脆くなった床など、自らの被災に向き合わなければならなかったが、解体によって家の骨格が現れたとき内側から溢れ出る記憶は懐かしく温かった。自分の部屋から見ていた台所の景色、料理をする母の背中、相談があるときは決まって母が料理しているときだった。外壁が壊され庭から家の中を見ているとき、何気ない記憶が初めて思い出された。解体前に家族全員で家を見送ったが、それでも最後まで家には記憶が染み付いていた。小学校もきっとそうなのだろう。感染症の影響で移動が制限された2020年に解体される校舎は、ほとんどの人に見送られることがなかった。でも、小学校には私たちの痕跡が確かに残されていた。解体前に収集された先生や生徒たちがメッセージを書き残した小学校の黒板が2021年に開館予定のアーカイブ施設に展示されるという。この先この地に訪れる人々が、遺構を介して多様な経験に触れ、自らと向き合う。町の記憶と時空を超えて繋がれる回路として、私はこれからどのような遺構を後世へ伝えていけるのか。消えてしまいそうなものたちの中にどう手を伸ばし、何を伝えていくのか考えていきたい。