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2026年。震災から15年が経った。私も10歳だったのがもう25歳になる。
大熊町に移住してから早いもので4年が経つ。

震災当時、小学3年生だった私は千葉市の小学校にいて、机の下に急いで潜って隠れたことを覚えている。

千葉市でも震度5強の揺れを観測し、街路樹が倒れたり、民家の瓦が落ちたり、それなりの被害があった。

事の重大さが分かっていなかったので校庭に避難して余震が来るたびに友達とゲラゲラ笑っていたし、ニュースで津波の映像をみても、原発が爆発している映像をみても、「なんだこれー」と感心するだけだった。

そんなこともすぐに忘れ、順当に学生生活を楽しんだ後、大学を進学せずに栃木県と岡山県で、農業や食品加工、建築やものづくり、スモールビジネスの創り方など「お金、組織、社会インフラに依存しなくても豊かな暮らしを自分でつくる術」を習得するための実践と学びを繰り返した。

高校を卒業してから二年間で、環境問題や社会問題について考える機会も多くあり、自分の手で自分の食べるものや住まいをクリエイトする技術も得て、自分自身の思想や哲学、生き方についても軸を見つけ始めていた。


大熊町との出会い

2021年の末頃に知人の篤農家の方から、「福島県大熊町で新規の農業事業を立ち上げるから手伝ってほしい」と連絡が来た。

今後の進路に悩んでいたタイミングだったので、これは何かの縁だと思い、一言目で「一度現場に行かせて欲しい」と頼んだ。

今でこそ大熊町は移住者が多かったり、新築の綺麗な建物や施設が建っていたりするが、私が初めて訪れたタイミングでは寂れた空気ばかりが漂っていた。

国道6号線沿いの風景や、遷移が進んで藪に覆われている集落の風景を初めて見た時のなんとも言えない感情を今でも覚えている。

実際に初めて原発被災地に足を踏み入れて、気付きがあった。

環境問題に意識を向けていると自分では思っていたが、小学3年生の頃にニュースで目にした福島第一原子力発電所が所在する町が、大熊町であることすら知らなかったし、放射能に関する知識なんて何もなかったのだ。

地球環境や人間社会の問題にただ意識が向いているだけで、何故かあたりまえのように「どこか自分とは遠く離れた問題」だと認識していたのだ。

私だって20年以上、電力会社の電力供給の恩恵を受けて生きていた一人なのに。

地球で生きる動物の多くは、自分たちの生存に対して自分で責任を持っている。

私たち人間だって、地球に生まれた動物の一種であって、他の種に比べて秀でた知能を持って生まれたのに、自分がどのように生存するのかのプロセスさえ知らないし、有限の地球資源を未来世代が使う分まで際限なく使い続けている。

友人たちの放射能に対する心配や忠告に耳を傾けながらも、

環境問題の最前線とも言える大熊町に移住して、『地球に生まれた動物の一人として、より良い地球を未来世代に引き継ぐことのできる生き方』を探求していくことを決断した。


大熊未来塾との出会い

photo by Dory誠

移住してから農業法人で活動していたが、会社員は性に合わず1年半ほどで退社し、地元の方から農地をお借りして、稲作を始めた。

ある農業系の小さなイベントをしていたときに、顔を出してくれたのが大熊未来塾の木村紀夫さん。これが最初の出会いだった。

不思議な縁で、それ以降も双葉郡内で木村さんに数回遭遇したことをきっかけに、話す機会も増え、機関誌「SoIL」を読んだり、木村さんの中間貯蔵施設内の自宅の語り部案内に参加したりして、木村さんの経験から生まれた未来への願いや想いを知った。

地元の方で、自分と近いことを考えている人に会ったのは初めてだったし、木村さんほどの経験をした人がそのような事を考えていることにとても驚いた。

そこから仲良くなって、活動に関わらせてもらうようになってから、木村さんの宅地、中間貯蔵施設自体を「学びの場」にしたいという相談を受けた。

誰かの犠牲の上で生きるのではなく、未来により良いものを遺しながら生きる。

今の世の中は、生きるために必要なほとんどの物が遠くから運ばれてきて、いらなくなった副産物はゴミとして遠くへ捨てられる。

そういった構造自体が「生きる」を自分事でないように見せ、多くの問題が他人事のように捉えてしまう原因のように思う。

自分の生活の排水が自分の田んぼに流れる暮らしや、家の目の前の川で遊ぶ暮らしをしていれば、どんな水を流すのか、どんな水を流したいかに意識が向く。

身の回りの植物から縄や履き物を作る方法を知っていれば、今まで厄介なものと捉えていた身の回りにある雑草の価値や恩恵に気付けるようになる。

遠くから持ってきて遠くに捨てるのではなく、敷地内で暮らしの大部分が循環する空間で、多くの人が体験を通して「生きる」とは何かという問いに向き合える場づくりが、2025年から始まった。

足半(アシナカ)づくりワークショップ


これから

まずは、2026年度に、木村さんの宅地の空間線量と土壌線量を測定して、放射線量分布マップを作る。

町が住民に公開している放射線量分布マップは、100m四方で区分けしている。1メートル場所が変わるだけで汚染の激しいホットスポットがあるかもしれないこの地域で、100メートル四方のブロック分けされた線量分布マップは、ほぼ無意味に等しい。

木村さんの宅地では、宅地全体を1メートル四方のブロックで細かく区分けして、全てのブロックを測定する予定だ。

汚染の度合いを見えるようにしてから、どのエリアで寝泊まりするのか、作物を栽培するのか、あるいは人ができるだけ手を入れずに森に還していくのかを決めていく。

放射能汚染地域で土地と繋がって生きていくためには、その土地の汚染の度合いを深く理解した上で、それに伴って自分で選択していくことが、本来のあり方のように思う。

駅西商業施設のように、とりあえず分厚くコンクリートで全ての土を覆ってしまえば大丈夫という考え方も、一部がすごく線量が高いから全て危険で人は入れないという考え方も、傲慢だし、人間の持つ知性を生かしていない。

僕自身、大熊町を含む原発被災地は、日本の中では健康リスクの高い地域だと思っているが、人間の知性があれば上手く放射能と付き合って生きていける地域だとも思っている。

また、この考え方でデザインされた場所は、そこにきた人々が「自分にとっての安心安全とは何か」を深く考え直すことのできる場所になるだろう。

この町で、この町だからこその生き方を、たくさんの人を巻き込んで一緒に模索していきたい。

多くの人に活動に参画してほしいし、まずは、ぜひ木村さんの話を聞きながら、実際の今の町の姿を見てほしい。

人間らしく、動物らしく「生きる」をしながら、先祖として未来のために自分が何を遺せるのかを一緒に考えたい。