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大熊未来塾では、2011年3月11日の東日本大震災とその後の東京電力福島第一原子力発電所の事故を経験し今も困難な状況がつづく大熊町の伝承活動に取り組んでいます。代表が震災後、家族の捜索活動から伝える活動に本腰を入れはじめたころ、わたしは関わりはじめました。

活動地域は現在「帰還困難区域」かつ「中間貯蔵施設」に指定されている地域に含まれ、今なお住むことが許されない場所です。特に中間貯蔵施設に含まれていると言っても、ひとつの施設らしい建物が建てられている、というわけではなく、第一原発を囲むように双葉町と大熊町の広大な敷地が指定され、その中に分別施設や焼却施設、土壌貯蔵施設など、処理するための施設が設置されています。その面積は16平方キロメートルとなっており、これは渋谷区とほぼ同じ面積。

しかし、それはあくまで「中間」的に保管することが国との約束で決まっており、30年後の2045年には県外搬出することになっています。とはいえ、中間的な保管先または最終処分場を受け入れる自治体が決まるのか?決まったとしても、この膨大な量の土壌や汚染物を運び、そのために田畑を埋め立て、山を削るような環境破壊が繰り返されるということ。原発事故もそうだったように、わたしたちは環境破壊を繰り返すべきなのか?

震災後、県内の除染作業が進み、避難指示解除が進む一方で、また、進まない廃炉の問題のすぐそばで、そのような状況がつづいています。

「中間貯蔵施設」と呼ばれるようになってしまった地域ですが、そこには地区名があり、それぞれの集落にはそれぞれの色があり、営みがありました。多くの住民は先祖代々受け継いだ自宅や自分の田畑があった土地を手放し、離れた場所で震災後暮らしている方ばかり。このままでは地域の記憶は消失し、将来この地域が中間貯蔵施設ではなくなったときに自分事として考える人たちはどれだけ残るのか。原子力災害を経験した地域として、社会やわたしたち人間の在り方を問うような場所になり得るかどうかは、今生きているわたしたちにかかっている。ちゃんと関心があることをアピールし、監視すること。

では、わたしたちにできることは何かと考えたとき、被害を受けた地域住民の経験や想いを伝え、それを受け取った人たちと一緒に「どう生きるか」という問いを共有し、仲間を増やしつづけることではないか。まだ10数年しか経っていない困難や悲しみを人に伝えることはとても体力のいることだし、住むことが許されない地域であるために主体的な住民が集まりづらく、大きな足かせになっているようにも感じます。

ならば、「いつでも場をひらき続けられる」わたしたちでありたいし、福島に限らず社会の違和感を持ち寄って共有するコミュニティでありたい。その繰り返しが、過去を省み未来を創造する人を育てていくのではないかと思います。

大熊未来塾で考えたいことは、福島の経験の話に限りません。世界での戦禍、水俣や沖縄の国内の社会課題、過去の日本の戦争…すべてが地続きであることを、また、問題の真ん中に自らも生きていることをともに感じることができれば、その場が有意義であると思えます。

わたしも「教訓」と簡単に言ってしまいますが、あらゆる犠牲は教訓のためにあるわけではない。でも、木村も、わたしたちも、そんな場をつくり続けることができたら、亡くなった方の想いや、生きている方の無念に寄り添うことにもつながるのではないかと考えています。

バースデードネーションを実施中です

現在、代表の木村紀夫が、次女の汐凪さんの誕生日にあわせバースデードネーションを実施中です。ご寄付は、大熊未来塾の伝承活動にあてられます。(詳細はこちらからご確認いただけます)

東日本大震災の津波と、その後の原発事故で置き去りにされた汐凪さんは、いつもわたしたちに様々な問いを与えてくれています。そして、もともとの住民や県外出身者とともに、大切な問いが共有され、大熊未来塾の語り部ガイドは日々変わっていくことと想像できます。

また、ご支援いただいた方は大熊未来塾のサポーターになることができます。毎月メールマガジンをお送りするほか、年度末報告書(基本的には年間1万円以上のご寄付)の郵送をしています。ぜひ、一緒に大熊未来塾を育むサポーターになっていただけたら幸いです。