
種をまくということ―汐凪ちゃんのバースデーライブに参加して
2025年8月25日の木村汐凪さんの誕生日に寄せた文章です。
「木村さんのしていることは、種まきなんだと思います」。汐凪ちゃんの誕生日の8月25日に先立ち、福島県大熊町の期間困難区域内で24日にあったバースデーライブ。汐凪ちゃんの父の木村紀夫さんに、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが優しく語りかけた。ライブが終わって約1週間。あの言葉が今も心の中でこだましている。
今でこそ、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市に住んでいるが、出身は千葉県船橋市。東北とは縁もゆかりもなかった。
震災が起きた2011年当時、中学2年だった。授業が終わり、掃除の時間だったろうか。校舎が崩れる!と恐怖するほど大きな揺れだった。血相を変えて教室に飛び込んで来た担任教師の顔も記憶に刻まれている。ただ中学生の私にとって、東北は地球の裏ぐらい遠い場所だった。通学路にある家電量販店のテレビが、激しく炎上する港の映像を流していた。「大変な所もあるんだな」。ぼんやり思った。
東北と縁ができたのは大学時代。メディアについて学ぶ中で、石巻に通うようになった。災害報道の勉強をするためだった。そして、ご遺族の語り部を聞く機会もいただいた。「子どものことを少しでも多くの人に伝えてほしい」。そう話したのは愛娘を失ったお母さん。涙のあふれる瞳を通じて、思いを託されたと感じた。震災が我が事になった瞬間だった。東北で活動する記者になろうと決めた。

震災で亡くなった子どもたちの慰霊碑=2021年3月12日、宮城県石巻市(撮影:漢人薫平)
石巻の新聞記者になって6年になる。震災の取材を続け、特に震災の伝承活動に取り組むご遺族と多くの縁をいただいた。つながりは県外にも広がり、木村さんとも出会った。

バースデーライブで演奏する木村さん(撮影:漢人薫平)
木村さんの次女で、小学1年生だった汐凪ちゃんは震災時、津波に襲われたとみられる。さらに原発事故の影響で捜索が遅れ、遺骨の大部分はまだ見つかっていない。一部が発見された自宅跡地近くでは、今も有志が汐凪ちゃんの手がかりを捜し続けている。これまでに数回、私も参加させていただいた。
「ひとりの人間を大切にできないのに、みんなを大切にできるわけがない」。捜索活動を通して胸に刻まれた考え方だ。沖縄各地で戦争犠牲者の遺骨を捜し続けながら、汐凪ちゃんの捜索にも協力している具志堅隆松さんの言葉でもある。帰還困難区域内でひとり捜索を続けるのは自分のエゴではないかと長く悩む木村さんに、具志堅さんはそう諭したという。(安田さんが副代表を務める認定NPO法人Dialogue for Peopleの記事〈https://d4p.world/14525/〉より)

帰還困難区域内の自宅跡地周辺で汐凪ちゃんを捜索する木村さん(左)と具志堅さん(右)=2022年12月31日、福島県大熊町(撮影:漢人薫平)
石巻ではどうだろう。ひとりの人間を大切にできているだろうか。大規模に整備された沿岸部に遺骨は眠っていないのだろうか。いまだ家族を捜し続ける人は、高台の集団移転地に住まいを追われた人は、巨大な防潮堤に海との営みを閉ざされてしまった人は…。大切にされているなんて、言えるのだろうか。
そんな「ひとりの人間を大切にする」という考えは、沖縄や広島など、木村さんが活動の中で関わりを深めてきた地域にも根付いてきたように思える。国策の原発が事故を起こしたことで多くの住民が故郷を追われた福島。国が始めた戦禍に見舞われ、今も米軍基地を押し付けられている沖縄。軍都として栄えたことで原子力爆弾を投下された広島…。いずれも大きな権力によって、市民の権利が奪われた歴史が共通している。

大熊未来塾の視察で訪れた広島県竹原市の大久野島。太平洋戦争時に旧日本軍の毒ガス製造に使われた発電所跡地を見学した=2022年10月29日(撮影:漢人薫平)
そして今、木村さんのもとには、同様の構造にとらわれている新たな地域の人々が訪れている。パレスチナ自治区ガザに対し、侵攻と住民の虐殺を続けているイスラエルに暮らす高校生だ。汐凪ちゃんのバースデーライブでは、今年の交流について話してくれた。その最中、木村さんの顔は何度もゆがんだ。
「原発事故とは違う」。母国が引き起こしている民族浄化について、高校生はそう述べたという。軍のパイロットを目指すとまで言った生徒もいた。昨年はジョンレノンの「イマジン」をともに合唱し、心を交わしたはずだった。「去年は分かりあえた部分もあったと思った。そう簡単にはいかないと思っていたが、あれほどまで国に洗脳されているなんて」。木村さんは悔しさをにじませながら涙をこらえていた。
その場にいた誰もが言葉を失う中、安田さんは冒頭の言葉をそっと投げかけた。「木村さんのしていることは、種まきなんだと思います」

バースデーライブで木村さんに語りかける安田さん(撮影:漢人薫平)
安田さんは話した。国に植え付けられた価値観を覆すのがいかに大変か。1年や2年ではとても足りない何十年とかかるかもしれない。それでも木村さんとの交流はきっと、彼らの心にいつか芽生える平和への種をまいている-と。
思えば、私も木村さんをはじめ多くの人から種を受け取った一人だ。記者を志したのも、石巻のご遺族がまいてくれた種が心の中で芽吹いた結果だ。だから次は、種をまく側の一人になろうと思う。
記者になったのは、未来の災害から人の命を守るため。ただ、報道の力でそれを実現するのは、平和を守るのと同じぐらい難しい。毎年のように起きる災害、失われる命に、つくづく痛感する。それでも、防災の種を人々の心にまくことはできるはず。
多くの人に託された種をまき、育てていきたい。「ひとりの人間を大切にする」社会が、いつか花開くまで。

撮影:漢人薫平
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石巻の新聞記者